デュルケム『宗教生活の原初形態』によれば、宗教の源泉は社会である。儀礼や崇拝を通し自分たちの社会的ネットワークを強化する役割を持つ。私は神の意志だったり幽霊のような非科学的なものはまったく信じていないため、どうしても斜に構えてしまうのだが、神という存在は人間が語り継いできた過程で構成されたもので、人間の都合の良いものになりさがってしまうように思う。しかしなぜ人はそれを信仰するかといえば、その中身が何であるか誰も知らないこと、語ることでしか現れないからこそ価値があると考えるからだと思う。

デュルケムは心理学的個人主義との戦いのなかで、集団の学としての社会学を構築しようとしてきたので、上記のような議論になります(彼の活躍した時代情況を考えなければなりません)。私もデュルケムは好きで、論文を書いたこともありますが、現在の人類学や宗教学では、こうした見方は客観主義に過ぎるとして退けられています。つまりデュルケムの見方では、宗教がなぜ人を引き付けるのかは永遠に非合理の問題となってしまい、個々人がどのような内面をもって宗教と接しているのかは明らかにされません。宗教が「起源」であるはずの社会を逸脱し、それを破壊してしまう刃を持つのはよくあることですし、常に共同体との関係で語ることができないことも、近年の研究成果によって自明になってきました。「分からないもの」に非科学的というレッテルを貼り、思考停止を招いてしまうのが最も「非科学的」なことです。自然科学的知識だけでは解明されえないことが多いのは当たり前で、それに対していかなる態度を取り、思考を続けてゆくかが社会科学・人文科学の課題のひとつです。