ギルガメシュ叙事詩と違って、神の抵抗に打ち勝つという展開があるのは、天皇権力の強さを示そうとしているのですか?

言説の形式としては、中国六朝以降の志怪小説等によく出てくるものです。英雄や王が、災禍をなす神や怪物を退治して、自然を切り拓いてゆく。社会なり共同体なりが肥大化し、それを支える資源が今まで以上に必要になると、それを実現しうる規模の開発が志向されます。例えば、それまでは規制がかけられていた開発の限度が破られ(多くは宗教的に抑止されています。それこそ、「この木を伐ると神の祟りがある」等々)、森林伐採や耕地化が進展してゆく。そのとき人間は後ろめたさや畏怖を覚えたり、前代の約束ごととの間に何らかの葛藤を抱え込んでしまう。それを払拭し、自身の行為を正当化するために語られ出すのが、〈神殺し〉なのでしょう(つまり、たとえ天皇の権威を強調する形で語られていても、その背景にあるのは、一般庶民を含めた同時代の人々の需要です)。しかし、その試みは結局失敗に終わり、人間は自然への畏怖と後ろめたさを解消できないまま現代に到達し、〈神殺し〉とともに〈祟り〉などの物語も語り継いでゆくことになるのですが。