『春秋』三伝は、どうして『春秋』に注釈を付ける必要があったのでしょう。
『春秋』の文章は簡略すぎ、追加説明がなければ意味が通らないほどなので、注釈を必要とするのです。儒教聖典の場合、こうした原テクストを「経」と呼び、注釈を「伝」といって区別します。前者は仏教の「経」典とほぼ同じ意味になります。簡略すぎるということは、いかようにも解釈しうる意味の広さ、抽象性を許容するということでもあります。ゆえに聖典の注釈作業は、経文のなかに隠された意味、予言を読み解くという神秘的なベクトルを持つこともあります。また、政治的正統性・正当性を創出するのにも利用され、そもそも春秋三伝は、左氏伝が韓、公羊伝が斉、穀梁伝が中山の正統性(自国をいかに夏・殷・周の後継と位置づけるか)をそれぞれ主張したものだとみる見解もあります。