飛鳥諸宮はほぼ天皇ごとに建てていますが、平城・平安と何代にもわたって使用されてゆくようになるのはなぜでしょう。

飛鳥までの歴代遷宮は、基本的に、有力な王位継承者が営む王子宮が、即位に伴いそのまま大王宮に発展した結果だと考えられています。しかし舒明天皇百済大宮以降は、大王が自己の権威を喧伝する中央集権的施策のひとつとして、宮の造営が行われることが多くなりました。多くの木材や石材を必要とし、大規模な労働力を動員して行われる造営の成功は、そのまま新たな大王の治世を自然神が祝福し、また支配民が服属を誓約・確認する一種の儀式でもあったのでしょう。しかし、中国から都城制を導入して宮に付随する京を建設するようになってからは、その事業があまりに莫大な費用・物資・労働力を必要とするため、必然的に代替わりごとの遷都は困難になってゆきます。地域社会の発展を中心とする社会変動によって、それまでのように全国民を天皇の事業に収斂することが不可能になってきたことも一因でしょう。それでも平城宮や平安宮の内部においては、当初各天皇ごとに宮城が改作されていた痕跡がありますので、平安前期までは「遷宮」の風習は残っていたといえるでしょう。