2008-06-02から1日間の記事一覧

紫微中台という役職の由来は、紫微宮からきているのでしょうか。

そうなのですが、直接的には違います。紫微中台の前身は皇后宮職で、光明皇后に付属してその活動を輔佐する令外官でした。天平勝宝元年(749)、娘の阿倍内親王が聖武天皇の譲位を受けて即位すると、光明は甥の藤原仲麻呂と謀って天皇の大権を代行することに…

飛鳥諸宮はほぼ天皇ごとに建てていますが、平城・平安と何代にもわたって使用されてゆくようになるのはなぜでしょう。

飛鳥までの歴代遷宮は、基本的に、有力な王位継承者が営む王子宮が、即位に伴いそのまま大王宮に発展した結果だと考えられています。しかし舒明天皇の百済大宮以降は、大王が自己の権威を喧伝する中央集権的施策のひとつとして、宮の造営が行われることが多…

大王(天皇)の権威が自然を完全に上回ってしまうのはいつのことですか。

これは藤原京のところでお話しする予定ですが、天武・持統朝に大王を即神(生きたままの神)化し天皇と位置付けるさまざまな施策がとられたと考えられます。上記のような、神統譜を伴う神話の形成もその一環です。しかしながら、自然を完全に上回る地位を目…

王権が太陽信仰に依拠したものなのに、自然を征服するというのには違和感があるのですが。

例えば、天神/地祇という言葉によって高天原に由来する神と地上(葦原中津国)の神とが区分されるように、王権は神々のうちにヒエラルヒー(上下関係)を作り出していました。そのうちタカミムスヒやアマテラスといった皇祖神がトップに君臨し、その子孫と…

斉明天皇が開発を好む人で、人からあまり支持されなかったというのは、人々は自然を開発することを恐れていたということでしょうか。それとも重い労働への不満でしょうか。

まさに6/9にお話しする中心のテーマです。しばらくお待ちください。

中国は立礼であるとのことですが、清代に皇帝への拝礼として「三跪九叩頭」なるものがあったと記憶しているのですが。

三跪九叩頭は清代の儀礼ですね。清朝は満州族の王朝ですが、漢民族以外の周辺諸族では、王への服属の礼として(近代的視点でみると)かなり屈辱的な作法が残っていることが多いようです。日本の跪伏礼・匍匐礼も同じで、これは、王という存在が人間以上の存…

建物の構造から何がいえるのかということがよく分かりませんでした。 / 中国式の立礼を導入し、立って歩くのに適した宮造りをしたというのは、具体的にどういうことでしょう。 / 日本でも、宮の中心線を無理して南北にする必要があったのでしょうか。

まず、天皇の居所が私的な空間と公的な空間に分けられたり、政務や儀礼を行うような空間が構築されてくることは、中国の形式を導入しつつ古代日本の政治文化が変質してきていることを意味します。ヤマト政権の盟主に過ぎなかった大王の立場が次第に他の豪族…

飛鳥諸宮における「重層」の意味がよく分かりませんでした。飛鳥板蓋宮などは、以前あった岡本宮を壊して建てたということでしょうか。それとも改築や増築を行っただけですか。

火災なども挟んでいますので、ケース・バイ・ケースですね。例えば岡本宮から板蓋宮への移行の場合、岡本宮は焼亡しているうえに自然地形に沿った方位で建てられていたので、南北方位の板蓋宮には建物の継承はありません。板蓋宮も火災に遭っているので、大…

発掘された建物等がいかなるものだったか、どのように利用されていたかなどは、なぜ特定できるのですか。

難しい問題です。実際、建築物の痕跡以外に参照しうる資料がない古墳時代以前の遺跡などは、その役割や機能を考えるのが極めて困難で、曖昧な部分も大きくなってしまいます。掘立柱の穴があったとすれば、どれくらいの長さの柱が立っていたかくらいは想定で…