漏刻の時間はいつまで基準にされたのでしょうか。中世や近世になってもまだ存在していたのですか。

少なくとも平安時代までは、陰陽寮のもとで管理されていたようです。養老令によれば、同寮には漏剋博士2人と守辰丁20人が置かれ、漏刻を操作し、決められた時間に鐘鼓を鳴らして周知を行っていました。地方では、日時計や時香盤(香の燃え尽きる長さで時間を計測する)を用いる情況が長く続き、近世に西洋式の機械時計が輸入され普及してゆくまで、時刻計測の主流を担っていたと考えられます。