大伴家持と恵美押勝の会話の意味がよく分かりませんでした。藤原南家郎女が仏の名を称えると、大津皇子が去ってゆく理由が分かりませんでした。

ここは、一級の文人でもあるふたりが文学談義をしている場面ですね。やがて話題は南家郎女のことに移りますが、彼女は神に仕える巫女になる女性、「神のもの」なので手が出せないという結論に至ります。しかし本当のところは、二人とも郎女に心が残っているのです。
郎女と大津の関係は、神の嫁である巫女のもとへ通ってくる祟り神そのものです。有名な三輪山神話では、三輪の神が玉依毘売のもとへ通って子孫を残し、その系譜が三輪山の奉祀氏族の祖である大田田根子へ繋がります。大津が、「おれの名を語り伝える子供を産んでくれ」というのは、そうした意味なんですね。この欲望を叶え、神の気持ちを鎮めるのが、古来より連綿と続いていた神婚の本義である、と折口は理解していたわけです。一方、仏教の見地からこうした神の懊悩を捉えると、神の苦しみは祟りとなって周囲に災いをもたらす、ゆえに神は悪業を背負って生まれてきた存在であり、現在の悪身から解脱させなければならないということになります。事実、8世紀に起こった初期神仏習合は、そうした論理を持つ〈神身離脱〉の法として実践されました。『死者の書』自体もそうした形の救済がテーマなのですが、現世的な執着の深い大津の亡霊は、それを無化してしまう仏教を当初は畏れ避けようとするわけです。