なぜ崇峻天皇は蘇我氏を嫌っていたのだろうか。崇峻を擁立したのは蘇我氏だったのでは。

崇峻と蘇我馬子との政治路線の対立が原因であったと考えられています。暗殺記事のすぐ前に書かれている、『書紀』崇峻天皇四年八月・十一月条によれば、崇峻は欽明天皇の頃に新羅によって滅ぼされた倭の朝鮮経営の拠点「任那の官家」を復興しようと図り、新羅へ詰問の使者を派遣し、さらに軍勢を筑紫まで進めています。しかし、任那復興は半島諸国との国際関係に大きな緊張を生み出します。とうぜん新羅とは交戦状態に入るわけですし、友好的な関係が維持されてきた百済に多大な負担を強いることにもなります。当時、高句麗百済の援助を受けた飛鳥寺の造営が進められていて、馬子は仏教を外交ツールとして東アジア情勢を有利に進めようと考えていました。その準備がまだ整っていない段階での新羅との戦闘は言語道断であったはずで、実際のところ崇峻暗殺は、倭国の国家的利害を冷静にみつめた結果断行されたものと思われます。