孝徳朝の難波長柄豊碕宮には、新しい宮城構造があったはずですが、まだ大極殿は設置されていなかったのですか。

いわゆる前期難波宮には、確かに大極殿とおぼしき施設が認められます。北側の内裏と南側の朝堂の中間に位置する建物で、天皇(大王)が出御し政務・儀式に臨むに相応しい場所です。しかし問題は、現在確認できる遺構は朱鳥元年(686)に焼失した廃絶時のものなので、これが孝徳朝の建築物なのか、天武朝の建築物なのか、にわかには決しがたいという点にあります。飛鳥宮と比較して顕著な朝堂の巨大さといい、難波宮は外交を意識して整えられた儀礼空間であったと考えられますが、それがどの段階での発想・建築なのかは不詳です。「大極殿」という宇宙の中心をなす名称・概念は、大王を天皇として神格化した天武朝以降のものと思われますが、豊碕宮でも立礼の整備などが行われていますので、王が出御する施設としては孝徳朝段階に存在したかも分かりません。