「軽皇子」が2人いたことについては少々驚きました。同名にすることに、何か特別な意味はあったのでしょうか。

中国文化の避諱を導入することで、次第に同名を付ける/称することに抵抗が芽生えてくるようですが、七世紀までの段階ではとくに注意は払われていなかったようです。ちなみに講義では触れませんでしたが、県犬養宿禰三千代が前夫美努王との間に生んだ橘諸兄は、臣籍降下以前は「葛城王」を名乗っています。