崇峻暗殺について、『魏志』に載る司馬昭の4代皇帝曹髦殺害に酷似している気がします。何らかの影響があったのでしょうか。

『書紀』は、引用された漢籍や音韻、漢文の文法などから綿密に解析してゆくと、中国人が撰述したと考えられるα群(巻14〜21・24〜27)、漢文に長けた日本人が編纂したと考えられるβ群(巻1〜13・22〜23・28〜29)、巻30の三つに分けられます。崇峻紀は巻21ですが、暗殺記事を含む同4年以降については漢文文法の誤りがみられ、やはりそれ以前の部分よりは時代的に後れ、日本人の手によって叙述されたものと推測されます。『三国志』からの文章の借用などは、α群の中国人撰述部分には一貫して認められるのですが、編纂官の相違によるのか巻21にはみられません。ただし、以前に書いた論文で、私も巻21に『法苑珠林』を媒介した北魏北周の歴史の援用を確認しています。曹髦殺害に類する事例は他にもみられるので、直接それに影響を受けたかどうかは分かりませんが、参照された可能性は大いにあると思います。