民間レベルでは、仏教はどれくらい伝わっていたのでしょう。

渡来人を中心に仏教が受容されていたことは、仏像や経典奥書などの残存情況からもある程度分かっています。畿内では、すでに7世紀の段階で一般の知識写経(仏教信仰をもとにあらゆる階層の人々が平等に結び合い、協力して写経を成し遂げる宗教活動。ただし、近代的な意味での平等が達成されていたかは疑問)の実践が確認されています。『日本書紀推古天皇32年(624)9月丙子条によると、この当時寺院は46所、僧は816人、尼は569人あったといい、『扶桑略記持統天皇6年(692)9月条には、当代の寺院数を545と記録しています。考古の発掘事例も、推古朝段階では20ヶ寺前後のものが、8世紀半ばまでには700ヶ寺余りへ増加しており、奈良時代へ至る時期に仏教が急速に広がったことが確認できます(この過程は、平安初期に成立した日本最古の仏教説話集『日本霊異記』などに生々しく窺われます)。8世紀には、国家の資格を得た僧侶が各地に招かれて一般へも布教したほか、私度僧などの活動もみられ、仏教は次第に社会の下層へまで浸透してゆきます。国分寺の造営も大きな契機となったでしょう。私たちの住む東国でも、8〜9世紀の村落遺構などから、寺名や僧名を記した墨書土器、仏堂施設とみられる遺構などが多く出土しています。