2009-04-20から1日間の記事一覧

民話伝承などを扱う民俗学に関心があります。入門的に読める本はありますか?

書店にゆけば、民俗学の入門書はたくさんあると思いますが、ぼくがお薦めしたいのは、小松和彦さんや赤坂憲雄さんの本ですね。とくに、小松さんの『異人論』(ちくま学芸文庫)・『憑霊信仰論』(講談社学術文庫)、赤坂憲雄さんの『異人論序説』(ちくま学…

仏図澄は、亀茲国出身ではなかったでしょうか。

もう少しちゃんと説明すべきでしたね。確かに、仏図澄の生まれはキジル(庫車)です。しかし、罽賓(ガンダーラあるいはカシミール)で修行したので、「竺」を名乗っているのですね。インド出身というのはそういう意味です。

蝦夷が夷狄であるなら、蘇我氏の族長が「蝦夷」を名乗っているのはなぜなのでしょう。

エミシというヤマト言葉については、元来「強力な人、強い勢いを持った人」といった意味があり、東国のエミシについてもそうした意味で使われていたようです。蘇我蝦夷のエミシも同様でしょう。大化改新以降の急速な中央集権化のなかで中華思想の受容が進み…

もし崇仏論争がなかったとしたら、蘇我氏と物部氏の争いもなかったのでしょうか。

講義でもお話ししましたが、『日本書紀』をよく読んでみると、物部守屋が滅ぼされる政治的対立は、皇位継承をめぐって起きたものと書かれています。恐らく、この事実が先にあって、宗教的対立であるかのように粉飾されたのでしょう。近年では、蘇我氏の本拠…

民間レベルでは、仏教はどれくらい伝わっていたのでしょう。

渡来人を中心に仏教が受容されていたことは、仏像や経典奥書などの残存情況からもある程度分かっています。畿内では、すでに7世紀の段階で一般の知識写経(仏教信仰をもとにあらゆる階層の人々が平等に結び合い、協力して写経を成し遂げる宗教活動。ただし…

当時の日本には、仏教と対立するような宗教はなかったのですか。地方で廃仏などの動きはなかったのですか。

まったくなかったとは言い切れませんが、日本が外来宗教の受容に極めて寛容だったことは、神祇信仰の成り立ちからも立証できます。神祇信仰(後の神道)は、列島固有の宗教のようにいわれていますが、古代に存在した神社のなかには、朝鮮半島から入ってきた…

高位にある人間は、本当に仏教を信仰していたのでしょうか。政治的手段のように思えるのですが。

確かに奈良時代に至るまでは、天皇らが仏教を個人的にどの程度信仰していたのか、明確に立証することは困難です。8世紀になると、神祇信仰の最高位の司祭でありながら仏教の戒律を受ける聖武天皇、正妃の光明皇后や娘の孝謙=称徳天皇の姿に、個人的な信仰…

天皇が神とされていた時代に、なぜ蘇我氏は仏教を導入したのでしょう。

追々この講義でお話ししてゆきますが、崇仏論争の舞台となった6世紀末の段階では、天皇はいまだ〈神〉としての地位を手に入れていませんでした。あくまで神祇を祭祀するシャーマンでもある政治的首長〈大王〉の域を出ていなかったのです。倭の在来宗教は、…

『日本書紀』が作られた意味が、日本がいかに文明的であるかを隣国に示すためであったなら、『古事記』や『風土記』もそうなのでしょうか。

『古事記』や『風土記』は、『日本書紀』とは異なる独自性、固有の編纂方針を持っています。『古事記』は内容の多くを『日本書紀』と共有していますが、8世紀宮廷社会のアイデンティティーを語るものとして編纂されたため、構成自体が『書紀』とは大きく異…

『日本書紀』には虚構といえる記事が多いのは分かりました。そうした記事を考えたり、漢籍から引用してきたりする特定の役職の人がいたのでしょうか。そういう部署があって複数の官人が頭をひねっていたのですか。また、他の宮廷の人々や一般民衆はその「捏造」をどう考えていたのでしょう。

現在、『日本書紀』の編纂過程の解明は、日本古代史学界でも最もホットな課題のひとつです。国史の編纂は、宮廷の図書を管理する図書寮という役所や、臨時に設置される撰国史所などによって行われますが、『書紀』の場合はその実態がよく分かっていません。…