漢籍の文章をそのまま『書紀』に援用するのはなぜなのでしょう。いくら『書紀』が国内向けとはいえ、「パクリ」だと知られたら大変だと思うのですが。

『書紀』は必ずしも国内向けではなく、むしろ、朝鮮半島や中国王朝に対して、日本文化の先進性を証明するために作られた色彩が濃いと思われます。だからこそ、漢籍の文章を使用していることが大切なのです。現代の感覚ではパクリかも知れませんが、古代においては、漢籍に対して広い知識を持ち、その文章を自在に操れることが、先進文化のひとつの証明でもあったのです。また、『書紀』に中国の経典・史書・古小説などとほぼ同じエピソードが出てくるのは、日本も中国と同じような出来事があったのだ、中国王朝と類似の歴史を辿ってきたのだということを喧伝したかったものと考えられます。