伝統と革新のバランスが崩れると、どのような影響があったのだろうか。/ 神格化された天皇の意図が果たされなかった場合、どのように言い訳されたのだろう。

非常に抽象的ないい方になりますが、改革の進め方が急激でありすぎ、旧来のものの考え方やそれを重視する勢力、旧体制から利益を得ている勢力をないがしろにしすぎると、反対派を強固にし、ときには反乱を招くこともあるでしょう。孝徳〜持統朝の間に謀叛事件や内乱が相次いだのは、緊迫化する東アジア情勢のなかで、倭の支配層に属する人々がそれぞれ危機感を抱き、改革を推し進めようとした結果なのでしょう。奈良時代中期にも、そうした政治情況は確実に存在しました。天皇の神格化も、そうしたなかで政策として断行されてゆきますが、もちろん、「うまくゆかなかった場合の言い訳」も用意されていました。例えば自然神より優位に立った天皇が、豊穣の恵みに与れなかった場合はどうなるのか。天皇への不安や批判の緩衝材となるべく中国から輸入されたのが、「災異思想」といって、為政者が天命から外れたとき、天が災異を降してそれを譴責するという考え方です。一見、天皇の地位が低くなってしまうようにみえますが、例えば干魃や水害などを自らの「不徳」とした天皇が、恩赦や免税、救済物資の支給などの措置をとることによって、天皇の徳の巨大さを喧伝できる仕組みにもなっているのです。また逆に、講義でもお話しした「祥瑞」を偽作することによって、一時的に社会不安を緩和する手段もとりうるわけです。支配層は、このように現実の危機に対し新たな思想を輸入・開発してゆきますが、それによって天皇という地位・権力の質も次第に変化してゆくことになります。