古墳の濠の構造は、堤防造りに共通するものがあったのでしょうか。また、古代には水を引く権利は存在したのですか?

例えば、有名な飛鳥の高松塚古墳では、棒で丹念に固めた墳丘の版築層から、筵の跡らしきものが発見されています。これは、土が崩落しないように筵を敷き、そのうえから土を固めていったもので、古墳中期頃より各地の治水堤防などでみられる「敷葉工法」と同種のものと考えられます。同工法を利用した施設としては、七世紀の大阪府狭山池がよく知られ、同所の博物館で保存処理された築堤の断面をみることができます。土の層と細かな枝葉を交互に重ねてゆく方法で、やはり土の崩落を防ぐためのものでした。
それから治水権の方ですが、やはり開発はしにくいものの河川の上流部を押さえた勢力が政治的に有利になると考えられます。『風土記』や『霊異記』など8世紀の史料には、すでに水争いのあったことが描かれています。秦氏も、桂川の上流部を確保することで、下流の向日や樫原の勢力にプレッシャーをかけていたものと考えられます。