当時の外交でも、現代のように国益をめぐって意見を衝突させることがったのでしょうか? / 日本の国号を宣言したとき、日本人には「倭」という字の意味が分かっていたのでしょうか。

中国の正史『旧唐書』は倭国伝と日本伝を併記し、両者の関係について、1)倭国と日本国は別種である、2)倭国が国号を改めた、3)日本国が倭国を併呑した、という3説を挙げています。恐らく、唐でも「日本国を名乗る使節の実態」をよく把握していなかったのでしょう。一方、日本国の側でも、唐が則天武后によって周と国号を改めたことなどを知らなかったらしく(これは遣唐使の断絶期間、外交上優勢に立つことを図った新羅が日本へ情報を与えなかったためと考えられています)、両者の邂逅は極めて手探りの状態で行われたことが推測されます。『旧唐書』はまた、倭が国号を変えたのだとすれば、それは「倭」という字を嫌ったためではないかと推測を述べていますが、当時の日本では文武の国風諡号にも「倭根子」などの表記を用いているので、必ずしも「倭」字を悪い意味には受け取っていなかったようです。
なお、後の天平勝宝6年(754)の遣唐使においては、副使大伴古麻呂が、唐の元日朝賀の席で新羅と席次を争っています。新羅が東側第1位で大食国(アッバース朝イスラム)の上に置かれたのに対し、日本が西側第2位でチベットの次に置かれたのをみた古麻呂は、「新羅は日本に朝貢して久しい」と主張して席次を入れ替えさせたのです。外交の場は、当然、国と国との利益が激しく衝突する場所でした。