広隆寺が治水機能において人心を集め、後々まで存続することになったとのことだが、後世にも桂川の氾濫は続いたはずではないか?

当然そうですが、逆にいうと、時々は氾濫が民衆に被害を与えなければ、広隆寺の恩寵が際立たないということもあります。被害が生じたときには、「民衆の側に災害を被る必然性があった」などと喧伝することで、治水機能が発揮されなかった言い訳をすることができます。事実承和年間には、暴風雨による大規模な洪水に対し、「葛野郡の郡役所にあった松尾神の神木が伐られたため」という託宣が下っています。度重なる災害について、民衆はその理由を求めますので、蓋然性のある説明をなしえたものが信仰を集めることになります。広隆寺をひとつの核とする太秦の神仏のネットワークは、そうした言い訳がうまかった、別の言い方をすれば民衆の不安を解消する手立てに長けていたということになるでしょう。