『書紀』編纂の順序についてですが、なぜα群の編纂の際に推古紀・舒明紀は飛ばされているのでしょう。不自然ではないでしょうか。

これについては学界でも議論のあるところです。森博達氏は、α群の編纂に携わった続守言・薩弘恪の経歴について詳細に調査し、雄略〜舒明紀を担当した続守言が、崇峻紀編纂の途中で何らかの理由(死亡、もしくは病気など)により作業を中断せざるをえなくなり、皇極紀以降を担当した薩弘恪も、大宝律令編纂などにより多忙を極めるなか、天智紀までを完成して世を去ったのではないかと想定しています。雄略の存在は、考古学や中国の史料からもその画期性が明らかですし、7〜8世紀のヤマト王権支配層にも「画期」であるとの認識があったことが分かっています。虚構性の強いそれ以前の大王に対し、雄略紀から編纂が始められたというのは説得的です。もうひとつの画期が大化改新に当たることはいうまでもなく、その記述を含む皇極紀の編纂が同時に進められたことも頷けます。そこから逆に考えると、推古・舒明紀は蘇我氏の全盛期に当たる部分でもあり、これをどのように叙述するかは、皇極・孝徳紀の改革の正当性とも複雑に絡んでくる。よって、皇極・孝徳紀の完成を待って遡及的に推古・舒明紀を編纂、蘇我氏の権勢を相対化する手段として聖徳太子の記述を利用したといえるのではないでしょうか。