当時の東アジアにおいては、高度な思想・文化の代名詞であった仏教を輸入・理解し、展開させてゆくことが、国家を繁栄させてゆくひとつの方法でした。推古天皇自身がどの程度仏教を信仰していたかは微妙なところですが(仏教や僧侶の行動に疑念を抱いているかのような記事もあります)、馬子を首班に法興寺を創建させ、僧侶の生産と寺院の造営を奨励したようですので、少なくとも政治的な必要性は認めていたのでしょう。厩戸王の講読が本当にあったのかどうかは分かりませんし、あったとしてもどの程度のものであったのかは議論すべきでしょうが、推古の宮廷において仏教思想の受容が進められたことは否定できないと思います。