蘇我氏はなぜ『天皇記』『国記』を持っていて、しかもそれを焼いてしまったのでしょう。大王家と蘇我氏が密接に結びついていたのなら、なぜ中大兄や中臣鎌足たちは、蘇我氏を滅ぼすことができたのでしょう。

天皇記』『国記』は現存しておりませんので実態は不明ですが、後の国史編纂に「帝紀」「旧辞」などが挙げられていることからすれば、前者は大王の系譜を整理したもの(存在したとすれば「大王記」でしょうか)、後者は王室と豪族たちの物語を収めたもの(恐らくは、豪族たちの奉仕の由来を述べた「本辞」の集成か)といえるでしょう。これらが蘇我本宗家に保管されていたのは、その編纂の中心人物が馬子であったこと、同家が王室と不可分の関係にあったことを示しています。また、中大兄に攻められた際に蝦夷がこれらを火に投じたのは、恐らくは蘇我中心の歴史叙述であったその記載が、蘇我氏を貶める材料に使われるのを恐れたからでしょう。また、蘇我本宗家の滅亡については昨年度のこの講義で詳しく扱ったのですが、やはり蘇我倉山田石川麻呂や阿倍麻呂の存在が鍵でしょう。高校日本史ではほとんど言及されないクーデター勢力の重鎮ですが、前者は王権のクラの管理(財政)を掌握していた有力者で、蝦夷や入鹿と蘇我の族長権を競いえたほどの人物です。彼の本拠の河内国石川郡周辺には、実際に入鹿殺害に加わった門号氏族(宮廷の門を守衛する氏族で、元来はクラの警備の役割も果たした)、佐伯や若犬養も分布しています。後者の阿倍氏は大王の側近に仕えた伝統的名族で、外交や海外軍事に力を発揮していました。阿倍麻呂は、当初蝦夷の片腕として朝廷の経営を助けていましたが、クーデターで即位することになる軽皇子に娘を嫁がせるなど、水面下で反蘇我の経略を進めていた痕跡がみられます。乙巳の変というと中大兄や鎌足ばかりが目立ちますが、実は彼らの背景となる勢力の存在が大きいんですね。