欽明朝の廃仏のときに登場した中臣鎌子は、鎌足の別名ですよね?なぜ突然出てきているのでしょう。

確かに「鎌子」は鎌足の別名ではあるのですが、実在の人物とすれば、やはり同一人とは考えられないでしょう。しかし興味深いのは、この欽明朝の鎌子という人物が、中臣氏の系図として一定度の信憑性がある『中臣氏系図』所引「延喜本系帳」には記載されていないことです。崇仏論争記事の虚構性を考えると、その実在自体が非常に怪しくなります。また、欽明朝当時、中臣氏が大夫としてどれほど発言権を持っていたのか、物部氏に付いて蘇我氏と競合するほどの勢力を持っていたのかどうかも気にかかるところです。