史料8の末尾に「即ち此の峰の南に就きて…」とありますが、これは道教の影響でしょうか。道教伝来の手がかりにはなりませんか。

確かに、墓が南にあるというのは道教ぽいですね。墓の風水的設置を語る『宅経』の類は中国でも広く利用されていましたし、日本でも仏教の疑偽経として作られたものが7世紀には使われた形跡があります。『風土記』の説話も、表現としてはせいぜい7世紀末までしか遡れませんが、渡来人が定着した地域や海外との交渉が深かった場所では、日常化した道教的習俗が早くから行われていた可能性があります。