ヤマト王権にとって、関東や東北も、紀伊や出雲と同じように境界として認識されたのでしょうか。

境界は境界でしょうが、出雲や紀伊とは少々位置づけが異なります。早い時代においては、ヤマトにとって、東国は「肥沃で強力な人々の住む土地」と見られていたようです。中華思想の導入によって「夷狄」概念が当てはめられ、その文化は差別的に扱われてゆきますが、かつての評価は失われはしませんでした。例えば阿倍氏は、阿倍比羅夫などを輩出して東北・北陸の「蝦夷」制圧を進める一方、東国に軍事的部民として丈部を組織します。東国には王権の武力的基盤の一端が置かれたわけですが、それは後世にも完全な従属には繋がりませんでした。王権は常に東国を掌握しようとしますが、東国は表面的には服従しつつも隙を見て反抗を試みます。かかる関係は、古墳時代武蔵国造の乱から、蝦夷征討、平将門の乱平忠常の乱、前九年・後三年の役を経て、鎌倉幕府の成立にまでそのまま繋がってゆくのです。