対称性についてですが、「自己」は「自我」がなければ成立しないのでしょうか。思考を持つかどうか分からない「物体」や「植物」は、「自己」や「他」として認められないのでしょうか?
認識のレベルで主体と客体が弁別されることは、もちろん前提としてあるでしょう。しかし、両者の差異を基準に、主体とは「こういうもの」、客体とは「こういうもの」という意味づけが始まりますと、そこには高次の「我」と「汝」が出現してきます。対称性社会においても「我」と「汝」は存在しますが、「我」は「我」であり続ける必要はなく、「汝」は「汝」であり続ける必要はない、両者の間は極めて流動的なのです。シャーマンが別の個体の精霊を身体に憑依させ、その個体になって語る「口寄せ」的な行為も、こうした流動性においてこそ発現する情況です。それは、私たちの意識世界でいう「感情移入」と似ていますが、自/他の境界が消滅してしまう領域において決定的に異なるのです。