遷都前の藤原京の地形は、南から北に向かって低くなります。平城京は北高南低の地です。このような占地の変化は、礼的秩序の導入と関わりがあるのでしょうか。
もちろん関係があります。ご承知のとおり、天子が南面している北側は南より高くなければなりません。藤原京は東南方向から西北方向へ傾斜してゆく地で、平坦面を確保するだけでも大規模な整地を必要としました。おまけに宮城が作られた周辺は低湿地でしたので、平城宮にも平安宮にもない内濠・外濠が宮・京の間に掘られもしました。中国的都城を実現するには、やや無理のある占地であったといえるかも知れません。一方の平城京は、北高南低の地であるうえに、平城宮朱雀門から羅城門に向かっては、10メートルほどの高低差が付くよう造成されていました。当時羅城門に立った人の目には、4キロほど先に、壮麗な大極殿が聳えてみえたことでしょう。