日本は遣唐使などで中国文化を必死に取り込もうとしていましたが、科挙に対してはどうだったのでしょうか。

日本も平安期に科挙を導入していますが、その効力を充分に発揮できないままに廃止されました。理由のひとつは、日本の律令国家が畿内政権の様相を呈していたためです。すなわち、大化前後よりの伝統的畿内豪族が、律令制というシステムを用いて、諸国を支配する形式が本質だったのです。そのため、支配層の核は常に一部の上級貴族層が掌握している状態であり、科挙によって官人となった下級の貴族たちもほとんど出世できず、上級貴族層の実務処理ツールとして使用されてしまったのです。しかし、中国の科挙制度の一部を模倣した「対策」は、文章得業生が文章博士の「策問」に答える官吏登用試験ですが、答案である対策文が『経国集』などに残っており興味を引きます。一般には「漢籍の引用を多用した空文」などといわれていますが、文化史的には、当時の文人貴族がいかなる教養を持っていたか考えるうえで重要な史料となっています。