殷代末期にかけて甲骨卜辞の内容が変質し、自然災害や戦争など臨時の大事について占うことが少なくなっていったことからすれば、その必要性に疑問を抱く王、貴族たちもいたものと思われます。ただし、祭政一致の政治・社会情況においては、そうした評価も相対的なものに過ぎず、王権における位置づけ自体は巨大なものがあったとみてよいでしょう。卜占の知識・技術は卜府が独占し、世襲的な史官=卜官が受け継いでいたものでしょうが、以前にレジュメで記した成王の誥のように、政治的に意味のある結果については公開したものと考えられます。