宗教の原初形態は、家族内の死者を「祖先の魂」として祀ることで、a)所有の正当性を提示し、b)所有のあり方を安定させるという2つの目的があるそうです。稲作と鉄器の普及によりさらに所有概念は複雑化してくると思いますが、宗教=社会と捉えてもいいのでしょうか?

宗教の原初形態の説明の仕方には、さまざまなモデルがありうると思います。デュルケームは、『分類の未開形態』のなかで、人間の方位カテゴリーの基準となったのはその方面にいる人間集団であると述べていますが、これは、彼が心理学的個人主義との戦いのなかで集団の学としての社会学を構築しようとしてきたこと、比較的単調な景観が続くオーストラリアをフィールドとしたことなどが背景にあると思われます。デュルケームが判断の基礎に置いた「人間集団」としてのトーテムは、レヴィ=ストロースによって、自然と人間との交渉のなかに位置づけしなおされています。宗教が文化的現象である限り、主体としての人間、人間集団を離れて考察することはできませんが、現代的情況においては、より自然環境とのベクトルを重視してゆかなくてはならないでしょう。