人柱の伝承は、やはり飛鳥時代の頃から広まったのですか。

いわゆる人柱が、実際に日本列島の歴史のなかで行われてきたかどうかは、柳田国男以来さまざまな議論があります。それは明確な人柱の「遺跡」がみつからないからで、柳田などは「物語の世界だけのもの」という立場を取っていました。しかし、近年の供犠論的アプローチのなかで、「人間を供犠した」と想定される遺跡も発見されており、人柱も「なきにしもあらず」という論調になっています。『日本書紀』に語られる供犠譚は漢籍を利用して創られたものが多く、その点、どこまで流布・浸透したか疑わしいものもあります。しかしこれらは、王権側が民間に残る前代的禁忌を払拭し、国家的開発事業の達成に尽力させようと喧伝したものと思われるので、屯倉設置地域や条里制敷設の現場など、「開発の先進地帯」においては盛んに物語られていたと思われます。