治水の作業は、当時どのような人々が行っていたのでしょうか。奴隷でしょうか。

実質的労働力は、奴隷というより、徴発された役民たちですね。支配層のそれは、当時直轄的支配領域であった畿内の民衆から確保されたようです。7世紀の宮殿建設になると、東国などの遠隔地から徴発することも行われてきました。首長への労働奉仕は、後に律令国家の素材とされる租や調がそうであったように、共同体成員の担うべき義務であったと考えられています。とくに治水や灌漑といった作業は、その利益を受ける近隣の共同体が、リーダーの指示のもとに実施しなければならないものでした。そうした社会の慣習、仕組みが、国家側によって次第に「負担体系」として整備されてゆくのです。