「藤原京」という名称に関しては、実は、当時の正史であった『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てこない名称なのです。『書紀』では「新益京」という表現を用い、天武の「新城」建設事業を引き継ぎ、飛鳥に対して新しく付け加えた都城と位置づけられていたのです。ただし、宮殿自体は「藤原宮」といわれていますので、これは当然の疑問かも知れません。しかし、この宮に冠された「藤原」は、氏族の名称ではなく地名であったと解釈すべきでしょう。地名であるとするなら、これまでの飛鳥や難波、初瀬等々にも同名の氏族がいましたので、別段不自然なことではないわけです。