聖徳太子は、なぜ天皇(大王)に即位しなかったのでしょうか。

厩戸王が有力な大王位継承者であったとすれば、やはり推古より長生きできなかったことがまず第一因でしょう。当時の大兄制のもとでは、同母集団の長子で宮を経営する大兄が、世代ごとに順番に大王位に即いてゆくことがセオリーでした。基本的に、前王が死亡しなければ継承は行われません。推古は、用明死後の皇位継承争いという混乱、その延長線上にある崇峻暗殺という異常事態に対応するため、宮廷内各勢力を調整すべく即位したものと思われます。しかし、その在位が意外にも長期化したため、厩戸即位の機会が奪われてしまったのでしょう。蘇我馬子の後を継いだ蝦夷は、推古の死後に厩戸の子山背大兄王を即位させようとしますが、非蘇我勢力に配慮し、結局は田村皇子を推戴します。しかし、結果これが仇となって、蘇我氏勢力が内部崩壊を始めてゆくのです。