言語によって世界が形成されると考えてみると、その国々や民族によって言語が異なるという問題に引っかかってしまう。歴史を語ろうとするとき、その言語ごとに違う世界観が生じることになりはしないか。 / 言語の種類の相違も、総体的に歴史に作用するのですか。つまり、「フランス人と日本人とで享受する世界は違う→歴史が変わる」ということですか。 / ある程度言語を習得できた人がなかなか英語等を自分のものに出来ないのも、言語によって既に世界が作られていて、英語→日本語→認識という手順を踏んでいるためなのでしょうか? / フ
そうです。使用する言語が違うと、世界は違うものになってしまうのですね。これを説明するうえでよく用いられるのが、「虹の色数」に関する話です。日本では虹の数は七色であり、普通我々は虹を七色のものとして認識しています。しかし言語体系の異なるあるアフリカの部族では、例えば虹を三色、五色としか認識していません。日本語より色の概念が少なく、現実を分節できないのです。彼らには、虹は三色、あるいは五色にみえているわけです。これをふまえて、もう一度虹について想像してみてください。それは本当に七色に色分けされていますか? いずれにしろ、言語のありようによって世界が異なることはありうるわけです。究極的には、使用する言語は、同じ体系のなかにあっても個々人で微妙に異なりますので、個人によってみている世界は違うということになるのです。