古墳時代に日本に存在した国は、邪馬台国以外にはどのようなものがあったのですか。 / 邪馬台国は九州と畿内どちらにあったと思いますか。 / 箸墓が卑弥呼の墓とされるのは、どのような理由からですか。

当時の日本列島に邪馬台国以外にも国のあったことは、『魏書』東夷伝倭人条によって確認できます。記載があるのは、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国で、とくに邪馬台国と臨戦状態にあるものとして狗奴国が挙げられています。
ところで、邪馬台国が九州か畿内かということですが、無責任なことながら、私はどちらでもいいと思っています。逆にいうとまだ判断材料が少なく、どちらかに確定するのは派閥的な解釈、あるいは予断に過ぎないと考えるからです。ただし、邪馬台国と後のヤマト王権が連続した存在であるとすれば、やはり北九州と考えるのはナンセンスでしょう。もともと出雲・吉備や近畿に大規模な政治集団が勢力を築いていたなか、統治機構を備えた複雑な政治体が北九州から畿内まで移動してきたとは考えられません。神武東征などは、明らかに神話です。
なお、箸墓を卑弥呼の墓とする考えは、もちろん邪馬台国畿内説を前提としており、同墓の属する纒向遺跡邪馬台国の都市遺構とする見解に基づいています。また同墓は、崇神朝にシャーマンとして活躍する王族ヤマトトトヒモモソヒメが埋葬されていると、『日本書紀崇神紀に記されているのです。彼女は三輪山の神の訪問を受け、その白蛇の姿を盗みみたことを恥じ、箸でホトを突いて死んだととされており、「箸墓」の名はこの伝承に由来します。卑弥呼とこのヒメのありようがよく似ていることも、根拠のひとつとされているのです。