都城制は中国起源ですが、日本への伝来については、朝鮮を経由していないのでしょうか。

藤原京を計画・立案していた頃、倭は、白村江の戦いによって対峙した唐・新羅のうち、新羅とは国交を回復していたものの、唐とは断絶状態にありました。ゆえに、藤原京造営のもとになった中国的都城のイメージは、新羅経由で日本にもたらされたと考えられています。しかし、戦国時代に成立した『周礼』考工記に依拠した藤原京は実は時代遅れで、長安城を実地に見聞した大宝遣唐使は衝撃を受け、彼らの帰国後新たな都の建設計画が始動することになります。すなわち、新羅はライバルである倭に有利な情況を作らせないため、情報を操作したのだろうと考えられるのです。ちなみに、高句麗百済新羅は、日本ほどに中国都城の模倣はしていません。高句麗百済は最後期の泗沘城・後期平壌長安)城にて碁盤目状の地割を導入しますが、中途半端な状態で滅亡してしまいます。新羅は最後まで、古来の王城であった月城から遷都しませんでした。よって、日本の都城が半島のプランを継承したかどうかは、部分的にはありえても全体的には当たらないだろうと思われます。