上野千鶴子さんの態度について、よく理解することができませんでした。現在の闘争というのは、どういうことなのでしょうか。 / アウシュヴィッツや従軍慰安婦問題などの過去の存在や犠牲は、上野さん的な見方では、過去のものとして扱えなくなるのでしょうか。現在においては、過去に犠牲とされたものは犠牲とは受け取られないのですか?

上野千鶴子さんらの標榜する構築主義を徹底するとすれば、私たちの認識する〈過去〉は、あくまで現在の私たちが現在の視点・価値観で構築する〈つくりものとしての過去〉に過ぎなくなってしまいます。すなわち、テクストと過去との繋がりはなくなり、そうした立場からは、〈実在としての過去〉を直接的に問うことは不可能となるわけです。上野さんはそれを前提に、歴史修正主義との闘争は、あくまで「現在において考えられている過去」をめぐる「現在の闘争」なのだ、と語っているわけです。北田さんも上野さんと同じ立場に立つ社会学者ですが、上野さんのような態度を歴史学者が受け容れた場合、歴史学は過去の存在や実在を問うことができなくなる。過去は歴史学にとってそんなに軽いものなのか、現在性のみに立脚してそれでよいのか、と疑問を投げかけているわけです。