震災の直後から今でもよく「不謹慎」という言葉が使われますが、この概念は悲劇を語るうえで直接的な表現を阻んでいます。これもまた、生者の恣意に依拠していることになるのでしょうか。これも忌避になるのでしょうか。

「不謹慎」は、むしろ鎮魂に関連するタームでしょうね。分かりやすくいいかえると、「無念を思え」ということになるでしょうか。今回の東日本大震災の折にも、石原慎太郎を通じて息の詰まるような自粛ムードが発生しましたが、ほぼ同じような情況が、関東大震災の際にも現出しています。例えばある旧制武蔵高校生の手記によると、震災発生後数日は、彼らも高校で歌やテニスに興じ心的ストレスを発散することができたものの、それを「不謹慎」とする大人社会の「常識」により、閉鎖的な情況へ追い込まれてゆくさまがみてとれます。天災論、天譴論の温床ともなり、人々のエネルギーを蝕んでゆくので、いわゆる復興にも逆効果となるものと思います。