2012-07-06から1日間の記事一覧

死者の問題ですが、日本のメディアはそうしたものを規制しすぎると思います。日本人はどこかで死者を忌避しているのでしょう。古代でも忌避しているとのことですが、現代とはやや違うようです。

個人的な経験ですが、以前僧侶の仕事をしていたとき、ある母親が、祖母の葬儀に孫を出席させないという事例に遭遇しました。母親としては、「悲惨な現実をみせたくない」との配慮かもしれませんし、必ずしも死を忌避した振る舞いではなかったのだと思います…

震災の直後から今でもよく「不謹慎」という言葉が使われますが、この概念は悲劇を語るうえで直接的な表現を阻んでいます。これもまた、生者の恣意に依拠していることになるのでしょうか。これも忌避になるのでしょうか。

「不謹慎」は、むしろ鎮魂に関連するタームでしょうね。分かりやすくいいかえると、「無念を思え」ということになるでしょうか。今回の東日本大震災の折にも、石原慎太郎を通じて息の詰まるような自粛ムードが発生しましたが、ほぼ同じような情況が、関東大…

死者論の死者の捉え方には、様々な宗教の死者の考え方も関わってくると思われる。キリスト教にとっては死者の魂は救うべきものですが、仏教では鎮魂という思想なのですか?

授業でもお話ししましたが、鎮魂はむしろ、日本列島の文脈においては神祇信仰的なものの考え方でしょう。アジア全体でも、広く在来宗教のなかに認めることができます。魂には荒ぶる面と穏やかな面があり、祭祀によってそれをコントロールすることが求められ…

感情・感性とは何でしょうか。理性・知性と二項対立的に把握されて然るべきものですか。

上の質問とも関連しますが、確かに、理性・知性/感情・感性という二項対立的把握には問題がありますね。それ自体が、極めて近代的なものの見方でしょう。両者は分離することは不可分であり、むしろ、感情・感性に彩られた理性・知性を、理性・知性に支えら…

「イエス、ノーといった同一化の応答からずらし…」や「忌避/鎮魂の中間項はありえないのか」といった講義の内容から、二元論の絶対的な存在が気になりました。別の授業のレポートのために参照した文献で、二元論に支配されていない学説はないとありましたが、歴史学のみならず学問全体において、二元論とはそれほどまでに不可欠であるのでしょうか。

ポストモダンの考え方では、二元論的な思考様式からの脱却が目指されています。二元論は分かりやすいので、複雑な世界の把握における常套手段として使われてきました。例えば、自然/文化の二項対立は、キリスト教的世界で営々と培われてきたものの見方です…

21年も生きて今さらですが、人が「倫理」という言葉を何を指して(何を想像しながら)使っているのかよく分からず、違和感があります。北條先生はどのような意図でお使いなのですか?

この講義では、他者との関係を、いかに暴力的ではない形で取り結ぶか、取り結べるのか、という問いが中心に置かれています。それを実現するのが倫理であり、倫理について考えるということでしょう。歴史学の営為も、そのうえに初めて成り立つべきものと考え…