乙巳の変に関する『書紀』の記述には、典拠となるような史料は発見されていないのでしょうか? / 『書紀』の乙巳の変に関する描写の細やかさが、中国の『史記』の荊訶による始皇帝暗殺部分の細やかさに似ている気がした。鴻門の会の部分にも、演劇性における共通項を見出せないこともない。何か影響を受けているのでしょうか?

古代中国には、「偶語」と呼ばれる宮廷演劇があり、中国史の野間文史氏などは、例えば『春秋左氏伝』の説話的部分の典拠として演劇の媒介があったことを想定しています。『史記』が依拠した史料群のうち、「その場でみてきたような」事件に関する記録は、やはり演劇に由来する可能性があるでしょう。『書紀』の乙巳の変に関する記事については、クーデターの記載そのものの典拠は発見されていないものの、その前段階にあたる中大兄と中臣鎌足の出会いのシーン(打毬の際に脱げた中大兄の沓を、鎌足が拾って差し出す)には、幾つか参考にしたらしいエピソードが確認されています。ひとつは『三国遺事』巻1 太宗春秋・『三国史記』巻6 文武王上に描かれる、新羅武烈王金春秋と金庾信との出会いのシーンで、細部は異なるものの、蹴鞠を通じて英主と側近が出会うという点では共通しています。また、『史記』や『漢書』にみる張良伝では、劉邦の軍師となる男が仙人から兵法を伝授される際、やはり沓を拾うことがきっかけになっています。『藤氏家伝』などで、中大兄は鎌足に「我が子房(張良の諱)なり」と述べており、後者をもとにした可能性は高そうです。