長屋王邸は左京三条二坊にあり、藤原仲麻呂邸は同四条三坊にありますが、住まいは身分の差を示すのでしょうか。 / 当時、住所という概念はあったのでしょうか。 

律令国家の根幹にある儒教の「礼の秩序」は、君主を頂点、庶民を底辺とするピラミッド構造が社会的に維持されていれば泰平が続く、その階層が乱されると種々の災禍を生じると考えていました。よって、衣服の素材や形、色から邸宅の規模に至るまで、身分によって截然と区別されていたわけです。平城京平安京のような碁盤目状の古代都市も、同様の思想を体現したものでした。北端には、「天子南面す」の思想や、天帝の居所を紫微宮=天の北極とする考えに基づき、天皇の住まう宮殿が置かれます。一応は、高位の人物ほどその至近に居住することができるわけですが、それほど厳密に遵守されているわけではありません。その他、環境的条件として、低湿な右京より高燥な左京の方が住みやすかったこともあり、左京は高位高官の住む地域、右京は下級官人の集住する地域になってゆきました。
なお、当時から「住所」の認識はあり、地方では国郡などの行政区画、都では条坊や寺院などのランドマークを書くのが一般的でした。8世紀、平城京の路傍に立てられていた告知札には、「○○という馬が行方不明なので、見つけた人は、山階寺興福寺)の中室の南端から三番目の房へ連絡してくれ」との記述がありました。