草木成仏論について、植物を燃やして草木灰を作り肥料にすることがあったと思いますが、それに関して「命の連鎖」といった認識はあったのでしょうか。

仏教は、生まれ変わり死に変わりといった輪廻のあり方を苦しみと捉え、そこからの解脱=成仏を最終目的とします。草木成仏論も同じことで、植物が輪廻の鎖を断ち切ることを意味するのです。よって、質問にある命の連鎖と草木成仏とは関係がないことになりますが、前者の意識が前近代の人々に獲得されていたのは確かでしょう。そもそも輪廻説自体が、人間を含めた生命の循環という自然現象に対する観察の結果、成り立ってきたものの見方なのです。農耕を支える心性の本当に深いところでは、同じような感覚が作用していたものと思います。農耕に携わったことのない人には実感がないと思われますが、農耕は狩猟と同じくらい、あるいはもっとたくさんの生命を犠牲にして成り立つものです。水田や畑自体、ある特定の作物を独占的に生育させるため、他の多くの生命の存在可能性を阻むものですし、多くの植物や昆虫、獣などを、雑草・害虫・害獣として排除してゆきます。昨今は生態系の仕組みをうまく農耕に活かす方法が模索されていますが、大量生産・大量消費がよいことと考えられていた時代には、まさに「ジェノサイド」の情況が現出していました。かつてはそれに対する「虫供養」「虫送り」といった農耕行事がなされていましたが、高度経済成長期を挟んでめっきり少なくなり、かわりに「農耕は生命を大事する」といった幻想が肥大化してゆくようになったのです。