刈敷のもとになる芝や草を育てるため、広範囲で樹木が伐採されたそうですが、樹木は食糧としても建材などとしても必要性が高かったと思います。そのあたりはどのように両立されていたのでしょうか。

一般に里山には、草肥や牛馬飼料を採る草山・柴(芝)山、茅場、薪炭材や木製品の材料を得るための雑木林、建材を得るための杉林などが持続的に維持されていましたが、近世を中心とする時代には、いわゆる年貢を納めるため、そのうち草山・芝山の占める割合が極めて高かったといえます。中世後期から近世初期にかけては、戦乱で破壊・消失した巨大建造物の再建、都市の復興・整備が進んだため、これまでの日本列島の歴史のうちで、最も樹木の少ない時代となっていました。この頃には、いま世界遺産に登録され、太古から続く原生林であるかのように思われている白神山地も伐採されており、これをきっかけに針葉樹林からブナ林への植生の転換が起きたようです。すなわち、我々が里山に対して抱くような「生物多様性に基づく持続可能な状態」は、(支配層の収奪や戦乱その他の政治的・社会的要因により)少なくとも中世後期以降の農村では稀であった、だからこそ度々大規模な飢饉に襲われ多くの被害を出したのだ、といえそうです。