シニフィアン/シニフィエの結びつきの恣意性についてですが、例えば人の名前も同じように考えられるでしょうか。子供に父親と同じ名前を付ける文化がありますが、このような場合、その人個人の実在はあやふやになってしまうような気がするのですが…。

子供に付与される時点での父親の名前をシニフィアンシニフィエに分けて考えてみますと、シニフィアンには例えばドナルドという音声記号、シニフィエには父親の風采・言動・生涯など、ドナルドを定義づける種々の意味内容が相当します。このような「名前」が子供に貼付されると、子供はその意味内容にある程度準拠しつつ、しかし自我の目覚めによって葛藤を抱きながら、しかし父親の名前のシニフィエの呪縛から完全には逃れられずに成長してゆくことになるでしょう。それは、たとえ父親の名前ではなくとも、偉人と同じ名前であったり、高尚な意味内容、あるいはその逆の軽薄な意味内容など、さまざまな場合に起こりえます。その意味で、「命名」は人の一生を規定付ける呪術であるといえるでしょう。