自然にシャーマンになってゆくのではなく、人為的に身体を傷つけたりして、シャーマンを創り出してゆくという事例はあったのでしょうか。また、シャーマンが臨まれる時代・社会、望まれない時代・社会はそれぞれあったのでしょうか。

有名なのは、柳田国男の「一つ目小僧その他」にみられるテーゼでしょうか。年中行事的な祭祀において、神の依代としてその中心となり、最後には殺される神主を聖別しておくため、片目を傷つけるというものですね。この考え方については種々の批判がありますが、トランスにもろもろの自傷行為が伴うことも事実です。広義でいえば、そもそも仏教その他でなされる苦行なども、仏神と感応してその告知を得たり、覚りを得るために行われるものですから、同じような意味でしょう。日常的な身心の調整力が強い人であればあるほど、非日常的な体験、神秘体験は得にくい。身体全体、もしくはその一部を傷つけたり、欠損させたりしてバランスを崩せば、それだけ体験を獲得しやすくなるとの論理が働いていたのでしょう。