高誘注型の変化の問題ですが、城門の血が鶏から犬へ変わったのは、周辺の環境の変化の問題でしょうか。また、わざわざ門に血を塗る点は変化していないことから、犠牲の意味は重視されたとみてよいでしょうか。

指摘のとおり、鶏か犬かという区別はあまり意味を持たずに、「この種」の動物が犠牲に供されるという点が重要だったのでしょう。注意したいのは、鶏も犬も一面神聖視されていながら特別な存在ではなく、祭祀の犠牲としても下位ランクであったということです。犬についても、古い時代であればあるほど神聖性は高かったようですが、六朝前後から大きくその価値は下がってしまいます。ここからはいろいろな事柄が読み取れると思いますが、やはりこの物語が権力の上層部から発生したものではなく、あくまで民衆に近いところから発生し、語り伝えられた物語であった点も確認できるのではないかと考えられます。