水戸光圀の『大日本史』の話が出ましたが、なぜ光圀は勤王思想に傾倒したのでしょうか。
『水戸義公行実』などの伝記史料によると、兄を差し置いて世子の座に就いた光圀は、その負い目から非行を繰り返したものの、『史記』の伯夷・叔斉伝に触れて改心したといわれています。同伝では、王位継承をめぐって兄弟が互いに譲り合い、ついには両者とも隠者として一生を終えますが、彼らは主君の殷を滅ぼした周の食を得ることを潔しとせず、山中で餓死してゆくのです。当初は兄弟の義に感動した光圀は、それを通じて忠君尊皇の思想に入ったとのことでしょう。光圀が招聘した朱舜水の朱子学は、〈理〉すなわち儒教的倫理・道徳に照らして歴史を評価する立場を採り、その前では天皇や皇族も批判の対象となりましたが、やがて日本化してゆくなかで、〈理〉自体が天皇イデオロギーと同一視されるようになります。幕末の水戸学はこのようにして出来上がり、明治維新を正当化する論理となり、国体の前提を提供してゆくのです。