ハンセン病や天然痘に罹った人が快癒した場合、彼らに施しをすることによって功徳が積まれるということは、実際にあったのでしょうか。それとも、弾圧の方が強かったのでしょうか。

もちろん、圧倒的に差別され、排除される部分の方が大きいですが、例えば中世説教節『小栗判官』が示すように、その救済に結縁することで善業を積もうという意識も存在したようです。『小栗』では、冥界から蘇った小栗が餓鬼阿弥=ハンセン病者の姿となり、救済のために熊野を目指します。当時の熊野は、穢れた病者も忌避せず受け容れており、小栗のゆく先々の人々が、彼を乗せた土車をかわるがわる引いて結縁してゆくのです。見方によっては、これは弱者救済の社会福祉的な感動物語なのですが、小栗救済に関わるひとりひとりが、最終的に自らの救済のために実践している点には注意が必要です。まさに、「情けは人のためならず」なのです。社会や共同体、個人のさまざまな価値観、目的によって翻弄されてきたのが、病者の世界であるといえるでしょう。