煬帝の不快を招いた国書は、どのように書けば正解だったのでしょうか。当時の礼節をしっかり踏まえていれば、不快にさせずに済んだのでしょうか。 / 幼い頃読んだ伝記のなかに、小野妹子が礼制の無視をフォローしたと書いてありましたが、これは間違いでしょうか。 / 渡来系氏族を用いていたにもかかわらず、なぜ外交の失敗をしてしまったのでしょうか。

その伝記にどのような意味でフォローしたと書いてあったのか分かりませんが、実は小野妹子は、煬帝が激怒した国書への返信と思われる国書を、帰国中に百済で盗まれ紛失してしまったと奏上しています。本当なら恐るべき大失態ですが、彼は罪に問われません。煬帝の国書が倭を叱責する酷い内容だったので、あえて処分し大王の手に渡ることを避けたのではないか、という見解もあります。そういう意味では、「フォロー」といえるかもしれません。律令国家においては、国書の形式も法律で規定されていますが、実際のところ、他国との交流が頻繁に為されていなければ、相手に求める国書の形式に完全に一致することは難しかったといえるでしょう。しかし今回の誤りは、東アジア外交の基本中の基本を外したもの、倭の五王の時代ではありえなかったものなので、それだけ倭のブランクが巨大であったことを意味するのかもしれません。また、上の妹子の記事にも絡んでくる百済は、一見倭と友好関係を保っていますが、半島における自らの政治的地位を高めることが第一義です。高句麗と強調しながら新羅を攻めたい百済は、倭が直接隋と交流することには微妙な印象を抱いていたはずで、両者のなかが拗れるように情報を操作した可能性もあるかと思います。