蘇我氏の親中国政策から中大兄の親百済政策への転換が気になりました。乙巳の変と関係があるのでしょうか。

蘇我氏は渡来系氏族を束ねている立場ですので、親百済的でなかったというわけではありません。実際、蘇我氏の建立した飛鳥寺は、百済の王興寺との共通点が多く、実際に百済からの技術者が渡来して造営したものと想定されています。よって問題は、なぜ斉明王朝白村江の戦いへ参戦する決断をしたかでしょう。これは情報量が少なく、なかなかに難しいのですが、斉明朝が倭京の整備や蝦夷の経略も含め拡大路線を採っていたこと、継体朝段階から朝鮮半島における失地回復ヤマト王権の課題であり、何度も出兵を計画しては挫折していること、などが挙げられるでしょう。唐軍の侵攻に際して、百済が滅亡後も抵抗し、高句麗が何度かこれを退けていることなどが、甘い観測を生んだのかもしれません。